HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲5 April

2 記憶の風


彼は公園を離れようと歩き始めた。静かな街灯の群れの先に洒落た造りのレストランが見える。そこには一度だけ入ったことがある。


「わたしね、あなたが思っているようないい人間じゃないの」
1年半前に行ったコンサートの前日。美樹と二人、向かい合わせに座ったレストランで彼女が言った。アンティークな照明に照らされて、陰影を深めた彼女の表情は心なしか沈んで見えた。
「どうして、そんなこと言うですか?」
「だってわたし、人を憎んだこともあるし、殺したいと思ったこともある」
「何故?」
「学校でもずっといじめられてたし、結婚してからも姑に酷いこと言われて、それで……」
「結婚した相手は庇ってくれなかったの?」
彼女は首を横に振ると、そっとハンカチで涙を拭った。

「彼は自分だけが大事だったの。それと母親。彼らはわたしをメイドとしか思っていなかった。それで、気に入らないと暴言や暴力を……」
「美樹……」
消えかけたキャンドルの火が一瞬だけ燃え上がるように、彼の中で炎が揺らめいていた。
「ああ、美樹。可哀想に……」
彼は静かに唇を噛んだ。
(僕にもう少し時間があったなら、彼女の憂いを取り去ってやれたのに……)
彼はテーブルクロスの下に置いた手をそっと開いて見た。白い指に反射するリング。それをそっと左手で隠して握る。
(この手で……)

注がれた赤ワイン。グラスの光。瞳に映る風。
(間に合うだろうか)
彼は、注がれる砂時計の残量を測ろうとした。
「ごめんね」
ハンカチを握って彼女が言った。
「あなたに愚痴るようなことじゃなかったのに……」
伏せた睫は思ったよりも長かった。
「僕に何かが出来ますか?」
そんな彼女を見つめてルビーは訊いた。
「いえ。でも、聞いてくれてありがとう」

「もしも、僕の力が役に立てるなら……」
彼女ははっとして顔を上げた。が、ゆっくりと頭を振る。
「僕は君のために何かがしたい。もしも君を苦しめるものを取り除いてあげることが出来るなら……」
「いいのよ。もう昔のことだから……。大丈夫」
美樹は慌ててそう言った。
「でも……。君は涙を流しました。言ってください。始末してあげる」
「駄目よ、そんな……」
彼女は否定した。
「構わないんだ。僕の手は君のために存在してる。ダーク・ピアニストとして、最後に君を救ってあげられるなら……」
「やめて! そんなこと言わないで。わたしが悪かったの。だから、もう言わないで……お願い……」
「美樹……」
それから、二人はあの公園に向かった。


「ハンス」
前方からジョンが片手を上げて近づいて来た。
「珍しいじゃないか。お魚さんが陸にいるなんて……」
ハンスは憮然とした表情で言った。
「ネットの海にいるのは僕のアバターだよ」
「知ってるさ。有能な魚のジョン・フィリップ・マグナム」
苛立ちを隠し切れずにハンスが言った。
「まだ、あのことを怒ってるの?」
「あのことって?」
「僕が君の留守に美樹さんと会ったこと」
ハンスは頬に掛かった髪を指で払うと言った。

「そうだね。すごく怒ってる。今もデートの邪魔したし……」
「今? ここには君しかいないじゃないか」
ジョンは周囲に視線を走らせて言う。
「……記憶の風を見てたんだ」
「それは悪かったね。でも、大事な知らせなんだ」
彼らは無言で公園の方へ戻り始めた。そして、再び海が見える所まで来た。遮る物がなくなって、海から吹き付ける風が急に強くなった。

「グルドの残党が日本に来てる」
「グルド? それはまた随分と時代遅れな響きだね」
「闇の民の中に懐古趣味のある奴がいたらしい」
ハンスは面倒そうにため息をついた。
「ルドには?」
「さっき伝えた」
ハンスの脳裏にふと指輪のことが過ぎった。
「何か気になることでも?」
すかさずジョンが訊いた。
「ふうん。やっぱり陸に上がるとお魚さんにも読めないパスワードもあるんだね」
「参ったな。いくら何でも人の心は読めないよ」

ハンスは面白くなさそうに靴の先で小石を突いた。
「結婚指輪」
それだけ言うとハンスは弄んでいた小石を蹴った。それは欄干の隙間から海に落下して小さな水音を立てた。
「彼女、ついにその気になってくれたの?」
「違う。1年半前にここで捨てた奴」
「ああ。エスタレーゼと交わした……」
ジョンの表情が暗くなる。彼は直接その件に関わっていた訳ではなかったが事情は把握していた。

「指輪の裏に書いてあったんだ。二人だけの秘密の誓いって奴が……」
「ロマンティックじゃないか。覚えてないの?」
「わからないよ。僕に言わせれば、文字なんてどれも区別がつかない謎だらけの存在だもの」
「まあ、それは単なる記号に過ぎないからね」
二人はじっと海を見つめた。
「それに墓の中には決まってガイストが住み着いているだろ? 誰が退治する?」
「騎士にも見解を訊いてみることにするよ」
二人は声を潜めて会話した。視界は広く周囲に人影はなかった。が、警戒するに越したことはない。

「訓練所の方に行かないか? そろそろスコアが気になるところだ」
「いいけど、僕は同じスコアなら数字より音符の方が好きなんだけどね」
ハンスが不平を言う。
「3月に回収したコルト。一応君に返そうと思うんだけど……」
「ああ。あれね……」
ハンスは少し俯いた。
「僕は反対だよ。彼女にそんな物を持たせるなんて……。まさか、そういう理由で欲しがったなんて思わなかったから……」
ジョンが苦言する。
「わかってる。僕だって想定外だったさ。だから、今度はちゃんと本物だって伝えるよ」
「法律違反だよ。ここでは」

「でも、いつも僕が傍にいられるとは限らない」
「誰かが必ず護衛に付くようにする」
「駄目だ!」
ハンスはきっぱりと否定した。
「何故?」
「信じられるもんか」
「僕のことが?」
ジョンがため息交じりに肩を落とす。
「誰だろうとだよ! ルドもキャンディーも君もみんなさ!」
ハンスがそっぽを向く。

「僕達、いい友達になれたと思ってるんだけど……。僕は君のこと信用しているよ」
遠い海の向こうを見てジョンが言う。
「じゃあ、何で出て来るの? 僕の友達はお魚のジョンだよ。人間の君じゃない」
「どういう意味?」
言われてジョンは困惑した。
「同じじゃないか。今ここにいる僕も、コンピュータの画面に映るアバターも、僕は僕だよ」
「そう。君は君だよ。でも、偽者のジョンなんだ。そうでしょう? でなければガイスト」
「やけに突っかかるんだね。今日はやめておこうか」
「そうだね。気が乗らない」
何故そんなに苛々しているのか自分でもわからなかった。が、二人はそこで別れて、ハンスは一人家路に着いた。


庭を歩いても、今年はイースターエッグが見つからない。幸運なウサギはやって来ない。
(どうして?)
あるのは十字架。彼が立てた吹雪の墓だ。そして、菘もいなくなった。
十字架には指輪が掛けてある。風で飛ばされたり、烏に持って行かれないように糸で結わえてある。
「指輪が……」
彼は急にエスタレーゼのことが頭に浮かんで悲しくなった。
「守ってやれなかった……! 一緒にいたのに……。僕がいても駄目だった……」

その日、具合が悪くなったエスタレーゼのために、ルビーは薬を買いに行った。そんな僅かの間に敵は襲撃して来た。彼が戻った時には血溜まりに倒れた彼女は虫の息だった。

――追っ手が来たの……。ご…めんね。ルビー……あなたを逃がしてやれなくて……」
――逃がす? 何から逃げなきゃいけないの? 僕は何者からも逃げたりしない。逃げやしないから……!」
顔を近付けると彼女の手がそっと彼に触れた。
――愛しているよ。だから……
――あなたは生きて……光の中へ……


彼女のお腹には赤ん坊が宿っていた。それは彼の子どもではなかったが、結果として二つの命が失われた。
「美樹の赤ちゃんも殺されたんだ……」

――つわりなんて病気じゃないって、うんと無理して、ある日、急にお腹が痛くなって……
病院に行った時にはもう……

「失われて……」
彼は不安になった。
(もしも、美樹がいなくなったらどうしよう。誰かに奪われたら……。そうでなかったとしても、最近は無理して仕事ばかりして顔色だって良くないんだ。もし、美樹ちゃんが死んでしまったら……)
彼は急いで玄関に回ると階段を駆け上がった。寝室のドアを開ける。が、そこに彼女はいなかった。彼は急いで書斎に向かう。
「美樹!」

彼女はコンピュータの前に座ってキーボードを打っていた。
「美樹!」
いきなり背後から抱き締める。
「ハンス? どうしたの、こんな時間に……」
「とても心配だったんだ。君が死んでしまいやしないかと……。こんなに仕事してたら駄目だ! 死んでしまう! それに、ガイスト達が君を狙って来るかもしれない」
「大丈夫よ。仕事は楽しんでやってるのだし、ガイストなんかわたしには見えないから怖くない。それに、あなたやジョンやルドルフ達が守ってくれてるんだもの」
「駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!」
ハンスは喚いた。
「そんなの信用出来ない」

「あなたのことも?」
美樹は冷静に訊いた。
「そう。僕のこともです」
彼は抱きついたまま離れようとしない。美樹は彼の上着をそっと指で撫でると言った。
「外に行ってたの?」
「はい。公園まで散歩して来たです」
「海の公園? ハンスは本当にあの公園が好きなのね」
そう言いながら、彼の髪や背中をそっと撫でる。
「お願いだよ。もう仕事なんかしないで僕といて」
「困ったこと言わないで。でも、ちょっと休憩するわ。お茶にしましょう」
そう言うと彼女は立ち上がった。

「お魚さんは来る?」
画面を覗き込んでハンスが訊いた。
「いいえ。でも、さっきメールが来て、進ちゃんが明日来るって……」
「何で?」
「用件には触れてなかったけど……仕事の話じゃない?」
「仕事ね。だったら家に来なくたっていいのに……。どうしてみんな、ここに来たがるんだ」
「そうね。何かこの家、人が集まりやすいのかも……。実家もそうだったの。昼となく夜となく人が来てて、学生の時なんてほんと落ち着かなくて、勉強どころじゃなかったし……。実際、勉強なんかほとんどしてないんだけどね」
そう言って苦笑する彼女に真剣な顔をしてハンスが言う。

「勉強は大事です。知らないとだまされるし、馬鹿にされることだってある。僕はちゃんと知ってるんだ。誰が君の勉強の邪魔しましたか? 僕が始末してあげます」
「始末ってね。もう昔のことだし、勉強しなかったのはわたしの責任だし……」
「でも、邪魔したのでしょう? それは妨害行為です」
「そんなオーバーなものなんじゃないって……。第一嫌いじゃないんだよ、そういうの。わたしもお客さん達と楽しく過ごしてたんだから……」
「じゃあ、今も楽しいですか?」
「そうね。楽しいよ」
ハンスは落胆したように彼女を見た。

「どうしたの? そんな顔して」
「僕といる時だけ楽しくしてください」
「そんなこと言ったって……」
「君だけが僕に幸福をくれるウサギなんだ」
そう言って涙を流す。
「ルイ……」
思わずそう呼んで彼を抱き締める。
「今夜はもう遅いし、シャワーを浴びて、ベッドに行きましょうか」
美樹が言った。

「ほんとに? いいんですか?」
ハンスが顔を上げて、じっと彼女を見つめる。
「今日は初めてのお仕事で疲れたでしょう? 早く休んだ方がいいよ」
「美樹ちゃんも一緒に?」
彼女が頷くと、ハンスは微笑し、絡めていた腕を解いた。


眠らないようにと心がけていたのはいつだったのか。ベッドの中には温もりが残っていた。が、彼女の肌の温もりだと信じ、手に触れていたのはウサギのぬいぐるみ。時計は3時半を示していた。
「まただ。ガイストに連れて行かれた」
彼はベッドから起き上がると廊下に出て書斎に向かった。予想した通り、部屋には灯りが点いていた。
「美樹……」
そっとドアを開ける。だが、人影はない。PCの電源も切れたままだ。
「美樹……」

隠し部屋にも降りてみた。が、そこには何の気配もない。彼は急いで階段を上がる。そして、書斎に通じる戸をそっと塞ぐ。それから、家の中を歩き回った。そして、扉という扉を開け放して彼女を探した。
「どこにもいない。消えてしまった。僕の……僕だけの君が……」
彼は暗い廊下で途方に暮れた。それから、もう一度寝室に戻ってぬいぐるみを抱いた。まだ微かな温もりがある。
「美樹……」
これもまた夢なのだろうかと思った。窓を打つ風の音に混じる悲鳴は彼女のものではないだろうか。自分がこうして安全な囲いの中にいる間に、彼女が危険な目に合っているのではないか。また失くしてしまうのではないかと思って心が震えた。

助けに行かなければと彼は思った。この四角い壁の檻から早く脱出しなければと……。しかし、何のために……。彼は困惑してぬいぐるみを見た。
「君は眠るとウサギさんになってしまうのかい? どうしたら人間に戻れるの?」
彼は端末を手にすると兄に電話を掛けた。
――「ハンスか? こんな夜中にどうした?」
2度のコールで出たルドルフが訊く。
「美樹がウサギさんになっちゃったの。それで、どうしたら人間に戻ってくれるのかその方法を訊きたかったんだよ」
一瞬の沈黙の後、兄は明快に答えた。
――「心配するな。明日になれば元通りになる」
「でも……」
反論を許さず、相手は言った。
――「おやすみ」
切れた電話を握り閉めて彼はぬいぐるみに顔を埋めた。

「今はもう、その明日になってるじゃないか」
空が白み始めていた。遠くから烏の鳴き声が聞こえる。
「きっと悪いお化けにさらわれちゃったんだ」
彼は急いで玄関に向かう。
「助けに行かなきゃ……。手遅れになる前に……」
そしてノブに手を掛けた時、同時に外側からも開けようとしている者がいた。
「誰?」
彼は慌てて手を放すと一瞬身構えた。開いたドアの向こうには驚いた顔をした美樹が立っていた。

「どうしたんですか? こんな夜明けに……」
ハンスが訊いた。
「あなたこそ、どうしたの? そんな格好で……」
ハンスは裸足で、薄手の白いパジャマを着て、腕にはぬいぐるみを抱えていた。
「君が心配だったから……」
「大丈夫よ。お庭に行っただけだから……」
「まだ暗いですよ」
「だって、こういう時間じゃないとばれちゃうでしょう?」
そう言うと彼女はペイントされた卵を一つ彼に見せて笑う。
「イースターエッグだ」
驚いたようにハンスが言った。

「ちょっとね、やってみたかったんだ。きっとあなたが喜んでくれると思ったから……」
美樹が照れたように笑う。
「ありがとう、美樹!」
ハンスは彼女を抱き締めるとその頬にキスをした。
「ごめんね。本当はもっと早く気が付けばよかったんだけど……。過ぎちゃったね。今年のイースター」
「いいんです。素敵だよ。ありがとう」
ハンスは美樹と一緒にリビングに戻ると、喜んでガラス戸を開けて庭に降りて行った。

美樹もサンダルを履いて庭に降りた。ハンスは隠してあった卵を見つけて笑っている。
「たくさんありました。全部で12個」
「教室の子ども達にもあげようと思ってたんだけど……」
庭には春の花々が賑やかに咲いていた。ペチュニアにチューリップ、ツツジやネモヒラ、そしてフランネルフラワー。区画毎に咲く花々に彩られた小さな散歩道になっている。
「僕が見つけたの、手で渡せばいいですよ。幸福はみんなで分け合わないと……」
スミレとバラの区画に立った彼が言う。

――みんなで幸せになりましょうね

ハンスの脳裏に古い記憶の風が通り過ぎて行った。
(エレーゼ……)
異国の風にふと感じた故郷の匂い。それを故郷と呼ぶに相応しいものならば、あるいはもっと遠い場所の記憶だったのか、彼には思い出せなかった。

「ハンス……? どうかしたの?」
美樹が訊いた。
「いえ、何でもありません。中身は何ですか?」
ハンスが卵の一つを振る。中からは渇いた音が聞こえる。
「チョコレートのお菓子よ」
「いいですね。僕、チョコレート大好き!」
抱えたぬいぐるみの耳が後方から見え隠れしている。
「うふ。ウサ耳付いてるみたいで可愛い!」
美樹は手元にカメラがないのを残念に思った。

その時、林の奥で人影が動いた。
(ライフルだ!)
発射された弾丸。
「伏せて!」
彼は咄嗟に抱えていたウサギと卵を宙に放って美樹を庇った。鋭い音が空気を裂いてぬいぐるみを直撃した。
「ハンス……」
地面に伏した彼女が不安そうに見上げる。
「しっ!」

彼女の身体を隠すようにしながらハンスは素早く周囲を伺う。視認出来る範囲に気配はない。狙える場所は限られている。恐らく敵は林の奥に潜んで、暗視スコープを使って狙いを付けたに違いない。敵は単独か複数か。彼は美樹の安全の確保を優先した。相手がただのスナイパーなら弾丸を弾くのは容易い。だが、油断は出来なかった。他にも仲間が潜んでいるかもしれない。もし、それが能力者なら……。庵やサイクロプスのような力を保有しているとしたら、シールドなど役に立たないだろう。
「僕が盾になる。君は走って家の中に……。入ったらすぐに鍵を閉めて、身を低くして地下に逃げて。そして、すぐにジョンに連絡するんだ」
「わかった」
美樹は青ざめた顔で頷いた。

「でも、あなたは?」
「僕は大丈夫。さあ、僕が合図したら走って!」
言うとハンスは彼女を立ち上がらせ、建物と自分の間に滑り込ませると、そろそろと後退し、リビングのガラス戸の前に出た。
「行って!」
ハンスが叫ぶ。同時に美樹は彼から離れまっすぐ駆け出す。そこにもう2発の銃弾が飛んで来た。が、彼は即座に風の力で弾き飛ばした。弾丸はどれも同じ方向から発射されている。
美樹は戸を開けて中に入るとすぐに鍵を掛けて身を低くした。ガラスはすべて防弾仕様になっていたが、用心に越したことはない。彼女は一瞬だけカーテンの隙間から不安そうに彼を見たが、ハンスが行けと合図したのでそのまま地下に向かった。

――グルドの残党が来てる

林の木々が薄明るくなった空の下に黒い輪郭を覗かせている。吹く風に混じるのは鳥達の不穏な囀り。足元にはカラフルな色を付けられた卵が転がっており、ネモヒラの根元には哀れなウサギが横たわっていた。
「可哀想に……」
ウサギの体内にめり込んだ弾丸を取り出すとハンスは風に問い掛ける。
「どこにいる?」
林を見た。明け始めた空は濃いブルーから浅葱色に変わろうとしていた。林は黒い翼を震わせて飛ぶ鳥のように見えた。彼は跳躍し、林に向かって駆け出した。

風は落ち葉を巻き上げ、枝を揺らす。相手はその間にも何度か狙撃して来たが、林全体にエコーが掛かったように音が共鳴し合い、彼の位置を特定させなかった。
「くそっ! どこに……?」
スコープを外した男が周囲を見回す。そこにいきなり頭上から声が降って来た。
「ふふ。見つけた!」
男の前に枯れ葉が舞った。
「何!」
男がライフルを構える。が、引き金を引こうとした指は凍り付いたように固まって動かない。

その銃口を塞ぐようにハンスが立った。その口元には笑みが浮かんでいる。
「き、貴様、どこから……」
「おまえ、日本人じゃないな。グルドの奴か? それにしては見たことない顔だな。新人かい? あれ? 手が震えてるじゃないか。僕もはじめはそうだったけどね。すぐに慣れたけど……」
「黙れ!」
男は焦って何度も引き金を引く。
「弾が入っていないんじゃないの? やっぱり新人は甘いね。ちゃんと弾の数を数えないといけないよ。僕、あなたの弾丸拾ってやったんだよ。ほら、これ」
そう言うと彼は持って来た弾丸を無理矢理銃口に押し込んだ。

「何の真似だ!」
「落とし物を返しに来ただけさ」
その言葉が終わらないうちに風が周囲を回り、男の手からライフルを奪うと銃口が反転し、男の胸に向かって弾丸が発射された。
「な……!」
驚愕したように男が両眼を見開く。
「僕のウサギさんを怖がらせた罰だよ」
その場に倒れた男の胸からゆっくりと赤い血が滲む。
「彼女、怯えてたじゃないか。僕の大切な人なのに……。3月も4月も、彼女を怖がらせてばかり……」

風が強く吹き抜けた。朝の光の最初の一片が見え始める。
「4月は特別な月なのに……」
頭上で羽ばたく音が聞こえた。烏だ。その黒い翼の影が彼の視界を掠める。
「僕は……生まれ変わったのに……」